~ 吉野川が作り出した平地と人々の物語 ~
井川・東みよし町エリア
古代から現代まで!吉野川と人、悠久ストーリー
Ikawa・Higashimiyoshi Area
吉野川中流にある東みよし町は、吉野川沿いや山間部に数多くの遺跡や古墳がある地域で、古代から人々がこの地で生活していたことを知ることができる地域です。また井川町の小さな平地にある辻町は、近世以降、刻みたばこ業で反映した地として知られています。そんな井川町と東みよし町では、吉野川が作り出した平地とともに暮らしてきた人々の物語を知ることができます。
美濃田大橋の上流下流で異なる景色、どうできた?!
通常時の吉野川
美濃田大橋あたりを流れる吉野川はスムーズに下流側に水が流れています。
増水時の吉野川
吉野川の川幅が狭い美濃田大橋あたりでは、下流へ流れる水の量が限られています。そのため、大量の水が流れてきた時には、上流側は浸水してしまいます。そして水がひいたあと、浸水した上流部分の平地には、砂や泥が溜まります。
この景観や自然環境をみんなで守りましょう。
私たちの大切な地球は、皆様の温かい心によって守られています。ゴミを捨てたり、大切な資源(岩石や植物など)を採取しないようにしましょう!
※このエリアには、その他の法律・条例によって守られてるものもあります。
井川・東みよし町エリアのサイト一覧
ジオサイト
ジオサイトとは、守るべき大地の特徴が見られる場所を指します。
和泉 層群 の向斜 軸部
讃岐山脈を作っている大地は主に、砂岩と泥岩の積み重なった地層からできています。その地層らは、大きく下にたわんだ褶曲(向斜構造)となっています。三好ジオパーク構想エリア内で、その褶曲の軸(折れ曲がっている部分)が見られる場所が増川谷沿いで観察できます。これらは、約8000万年前の海底下で堆積した砂や泥の地層が、その後隆起する過程の中で、東へ傾きながらたわんだことを示す証拠です。
加茂の中央構造線露頭
この露頭は、加茂の河原にある池田断層破砕帯露頭です。これは、平成30年7月豪雨時の吉野川の大増水によって河原の岩石が取り払われたことによって現れたもので、中央構造線の北側の大地を作っている和泉層群の破砕帯(黒色)と中央構造線の南側の大地と作っている三波川結晶片岩の破砕帯(灰緑色)が観察できる場所となっています。この断層に沿って東へ目をやると、道の駅三野の太刀野の中央構造線(ジオサイト)へ続いていることがわかります。
カルチュラルサイト
カルチュラルサイトとは、大地と関係した守るべき文化が見られる場所を指します。
八 石 城 跡
八石城は、池田町漆川や井内谷と祖谷をつなぐ街道沿いに築かれており、井内谷の急峻な地形、標高約800m付近の尾根の先端に建築された中世の山城です。敷地内にはこぶし大の円礫が用いられており、城としての土地として活用されていたと考えらえています。
腕 山 牧場
腕山山頂は稜線が少し不鮮明で、緩やかな地形が広がっています。これは過去の斜面の地すべりによってできた線状凹地という地形です。この地形や山頂の涼しい気候を利用し、夏場は牛の放牧地として活用されています。
足代 東原 遺跡
この遺跡は、吉野川北岸扇状地上にある、弥生時代後期から終末期の積石墓群です。1981年に吉野川の農業水利事業に伴い発掘調査が行われ、東西180mの範囲に前方後円形墓を中心に、35基以上の円形墓群が発掘されました。これらの墓石に使用されているのは、讃岐山脈から運搬されてきた砂岩の角礫が使用されています。
天椅立 神社の浸水記録
この神社は河成段丘上に築かれています。この神社の階段には、昭和29年9月13日に九州を縦断したジューン台風による浸水記録としての鋲が打たれており、自然災害伝承碑にも選定されています(町道からの比高は、4.1m)。
加茂の大クス
このクスノキは、吉野川の堆積物の平野に生育しており、樹幹は、根周り約20m、幹周り約13.20m、高さは約25mで樹齢は1000年と推測されています。このクスノキはもともと若宮神社の御神木としてここにあったものですが、1914年に4つの神社を合社して武大神社となり、その武大神社の跡地に生育しています。